自己満足

やる気と自己満足は渾然一体としていて、非常に曖昧模糊としている。自分のやっていることに満足するため、もっとやってみようと思うのであって、まるで手応えや納得のいかないものでは、すぐ飽きるし続かないだろう。しかし自己満足を得ることはそれほど難しくはない。それは、意図的に自分よりレベルの高い人や成功している人を見ずにきづこうとしないことで、容易に達成できる。



自己満足のもたらすものはそれだけではない。幸福な人生を人は夢見るわけだが、幸福と呼ぶものは、突き詰めれば、自己評価の高い状態=自己満足状態を指す。自己満足は時に一生の評価さえ決めるのだ。



勿論のこと、社会で成功する。創作物が人から認められる。など他者評価を内包する自己満足もあるのだが、何をもって成功か、何をもって認められるかという基準は、自己の欺瞞でいくらでも上げ下げできる基準であるため、これも自己満足に含まれる。



横道へそれるが、このような価値判断の問題は、議論し他人と意見を戦かわせ正当性を問う問題の類ではない。決して戦うことのできない異種格闘技同士を比べて、強い弱いだの言い合うようなものだ。そもそも違うルール(基準)の競技を、強いということの定義さえ難しい状態で他者同士が言い合って論理的な解がでるわけがない。



結局のところ何がいいたいかといえば、生き方や人生の根底に根付く自己満足は実に自己の欺瞞で成り立ち、吹けば飛んでいつのまにか消えるタンポポみたいである。がんばったほうがどうとか、良くものを考えるほうがどうとうか、たくさん本や作品に触れて豊かになったほうがどうとか、後世に残す偉業がどうとか、



どううけとめるかも自分、どうするかも自分。どう感じるかも自分。なにがあっても笑える心があれば、なにもなくても幸せな人生で、なにがに囚われる心があれば、なにもかもがあっても、心は沈んでいく。心、心、心、心・・・。不遇な心の持ち主は不遇。